出版情報:谷内正往著

『戦後大阪の鉄道とターミナル小売事業』

 

本書は主に戦後の大阪鉄道の変遷と大規模商業施設の関わりについて、大阪の交通の変遷、例えば、市電から地下鉄への変化とか、関西の私鉄の発展に着目、大阪にとってターミナルにある百貨店、デパートとの関わりがいかに深いかを示した書籍です。著者の視点は分析的ですが、読み物としても、忘れ去られた大阪が蘇ったり、梅田やなんばの地下街の変遷に目が開かれたり、刺激的な内容となっております。大阪に興味あるかた、百貨店や商業施設に興味ある方、そして鉄道に興味ある方に一読をお勧めします。アマゾンでも取り扱っております。

ページ数:220ページ。46判縦組み。ソフトカバー。定価本体1800円。出版コード:ISBN978-4-86434-108-0

 

 

 

出版情報:水野勝之他編著「林業の計量経済分析」

五絃舎の長谷でございます。新刊のご案内をさせていただきます。タイトルは、『林業の計量経済分析』。著者は、水野勝之・土居拓務・安藤詩緒・井草剛・武田英司編著。現代日本の林業の現状について、制度的、現場的分析ではなく、計量経済理論から分析したのが本書の特徴。分析結果からの提言、他国との比較分析も行っております。ページ数:123ページ、定価:本体1800円、ISBN:978-4-86434-107-3。アマゾンでも取り扱っております。ご注文いただければ至急出荷致します。

https://www.amazon.co.jp/s?k=%E6%9E%97%E6%A5%AD%E3%81%AE%E8%A8%88%E9%87%8F%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%88%86%E6%9E%90&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&ref=nb_sb_noss

 

2018年

10月

08日

出版情報:海野和之著「公の鳥瞰」(I)(II):付記(2)

『公の鳥瞰』追記

 

 

 

                                                           海野和之

 

 

 

 本書は、2005年の刊行後、新たな学問的蓄積や数多くの制度改正が進展するなかで、同年3月までの状況しか踏まえられていない記述内容の多くが鮮度を失い、今日的な観点からの書き直しを必要とする部分も目立つようになった。もとより、そうした陳腐化は改訂版の刊行によって刷新されるのが当然だが、近い将来の実現は困難な状況にあり、現時点において、時代の変化を反映したアップデートは諦めざるを得ない。ここでは、あくまでも刊行の時点に踏みとどまりながら、当時の自分の能力不足から不十分・不完全な記述しか叶わなかった数か所について、若干の修正・補足を試みることにする。

 

 

 

145

 

 ある意味で、応能負担や所得制限といった公共政策における福祉的な配慮は、所得分配の不平等を実生活上の不平等に直結させないための政治的=行政的な工夫であると言うことができる。実際、極論すれば、社会が妥当と考えるギリギリまで所得分配上の格差が税制で是正されたなら、個別的な福祉的配慮はむしろ不要であると考えられるだろう。したがって、そうした福祉的配慮の存在理由が社会的に必要な格差是正の補完にあるのだとすれば、その恩恵は有資格者全員が対等に享受できるものでなくてはならないはずであり、抽選の当選者など一部の好運な者だけを優遇するような形での運用が解消されないなら、むしろ一般的な税制による再分配の強化こそが重要であると見なされるかもしれない。なお、保有資産の残高に注目した応能負担の原則は、資産が合法的に取得された財産の蓄積である以上、貯蓄に対するペナルティという側面を持つものとなる。したがって、それを避けようとするなら、財産取得時の課税における垂直的公平の達成度合いを社会的に適正な水準にまで徹底した上で、資産の保有に対する課税においては、適用する公平性の原則を水平的公平のみに純化させることが肝要かもしれない。

 

 

 

152

 

 消費税が非課税の取引では、対価を受け取って物品・サービスを提供する事業者も、税制上はエンドユーザーとして扱われていることになる。したがって、ゼロ税率の場合とは異なり、非課税の事業者は仕入れ額に含まれていた消費税分の還付を受けることはできない。実際、たとえば社会保険の医療費が非課税からゼロ税率に変更されたなら、医療機関には薬剤などの購入にともなって支払われた消費税相当額が還付されることになるはずなので、両制度は、消費者にとっては「消費税がかからない」という意味で同等でも、事業者にとっては大違いとなる。もちろん、ゼロ税率という仕組みの下で、事業者への還付は特別な優遇ではなく、合理的な措置にすぎないが、還付金の有無に注目する限り、ゼロ税率の不適用という意味での非課税措置は、事業者への冷遇とも見なされ得るだろう。そのため、推測だが、非課税措置の採用にあたっては、たとえば診療報酬には消費税分が反映されているという説明がなされているように、それが適用される事業者への優遇や配慮を含め、社会の諸制度全体を見渡した上でのバランスが考慮されることになるのかもしれない。

 

 

 

160頁・161

 

 生活保護制度にとって、自己資産の優先的な活用という保護の補足性は、たとえば無収入の大金持ちを支給対象から除外するというような意味で、当然の原則だろう。しかし、この原理は、極端な対比をすれば、日頃から倹約に努め、一定の財産を蓄えて現役生活を引退した正直者を冷遇し、放蕩三昧の日々を過ごし、一文無しで現役生活を引退した道楽者を優遇する原則でもある。他方で、扶助のメニューが8種類に区分して用意される点については、受給者の個別事情に対する配慮を踏まえた措置として、一定の合理性が認められることは言うまでもない。しかし、医療扶助や介護扶助による代替を通じた生活保護制度の保険制度からの隔離は、生活保護の受給者に、自己負担を伴わないサービスの受給を保障することで、サービスの受給には一定の自己負担を要求するという現行の保険制度とは異なる原則を適用する結果となっている。このことの是非は、低所得世帯との収入の逆転という論点のみならず、自己負担の有無とモラルハザードという観点からも、議論を深める必要があるだろう。

 

 

 

163

 

 国内外を問わず、負の所得税が現実の政策として導入された事例は存在しない。しかし、税制と社会保障の一体化という着想は、給付付き税額控除という制度へと応用され、アメリカを皮切りに、勤労税額控除として10か国以上で採用されるに至っている。勤労税額控除は、勤労を条件に低所得層に税額控除を与え、所得税額が控除額を下回る場合には超過分を給付として還付する仕組みだが、アメリカなどの制度では、控除される金額は所得の上昇とともに変動し、一定水準に達するまでは逓増するものの、それを超えると定額で頭打ちとなり、さらに一定水準を上回ると消失するまで逓減するように設計されている。

 

 

 

220

 

 本書で展開した年収が等しいシングル・インカム世帯とダブル・インカム世帯の経済格差に関する考察には、議論の前提に論理的な誤りが存在する。執筆時には気づかずに犯したものだが、出版後にテキストとして利用した授業を聴講していた一人の男子学生が鋭い質問を投げかけてくれたおかげで、議論を再考し考察を深化させるきっかけを得ることができた。今となっては連絡の術もないが、率直に疑問を投げかけてくれた熱心な受講生M君に感謝の気持ちを捧げたい。

 

 両世帯間の経済格差については、以下のように、3つの解答を想定することが可能だろう。なお、両世帯の条件は、子供を保育園に預けねばならない世帯Bに年間100万円の支出が不可避となる以外、まったく同一とする。

 

      世帯A  夫の年収:1000万円 妻の年収:         0円 子供:3歳児1

 

   世帯B  夫の年収:  500万円  妻の年収: 500万円 子供:3歳児1

 

 1 年収が等しいのだから、経済格差は存在しない。

 

 2 世帯Bにとって100万円は必要経費なのだから、真の年収は900万円ということ     になり、経済格差は100万円という結論になる。

 

    3 専業主婦である世帯Aの妻は自分で子供の世話をしているわけだが、これは外注す        れば100万円かかるサービスを自分で自分に提供していることになり、100万円分の          目に見えない所得(帰属所得)が生じていると考えることが可能となる。したがって、        世帯Aの夫婦は1000万円の年収と100万円の帰属所得(100万円(i))を手に入れ、世   帯Bの夫婦は 900万円という真の年収と0円の帰属所得(0円(i))を手に入れて             いるという結論になり、両世帯の経済状態は以下に示した通りとなる(i= imputed)

 

     世帯A  1000万円+100万円(i)

 

     世帯B  1000万円-100万円+0(i)

 

      以上の論理を踏まえる限り、両者の経済状態を完全に無差別化するためには世帯Bに「100万円+100万円(i)」をプレゼントする必要が生じることになるが、世帯Aにとっての100万円(i)とは、妻が専業主婦であったが故に生じた非勤労時間(仮に通勤時間込みで110時間としよう)によってもたらされたものに他ならない。そう考えれば、世帯Bに100万円(i)をプレゼントするということは、世帯Bの妻に110時間をプレゼントすることでなくてはならないだろう。しかし、誰にとっても1日は24時間なので、世帯Bの妻に110時間をプレゼントすることは物理的に不可能である。したがって、世帯Bの妻の「1日につき10時間」に代替する何かを探せば、それを活用して(あるいは犠牲にして)得られた実質的対価、すなわち400万円がプレゼントされるべき100万円(i)の等価物として見いだされる。したがって、世帯Aと世帯Bの完全な無差別化のためには、世帯Bに500万円(=100万円+400万円)をプレゼントしなくてはならないことになり、経済格差は500万円であるという結論になる。当然、世帯Bに500万円がプレゼントされれば、世帯Bは世帯Aと同様、年収1000万円のシングルインカム世帯となることができる。

 

 

 

306

 

 財政赤字の深刻化がもたらし得る最悪の事態は、国家財政の破綻である。しかし、そもそも財政赤字とは、誰の負債のことなのだろう。もしそれが政府によって独裁的に(すなわち国民の意向を無視して)執行された無用の出費の累積なら、財政赤字は文字通り政府が責任を負うべき政府の負債である。そして、言うまでもなく、負債が弁済されねばならないのは当然であり、弁済のためには、借り入れの主体(個人・任意団体・法人)が公人であれ私人であれ、返済のための資金が調達されなくてはならない。しかし、一般的な私人の場合とは異なり、政府にとっての資金調達とは、働いて稼いで貯めることではなく、税金を徴収することなのである。だからこそ、国会は政府を監視しなければならず、国民は議員を監視しなければならない。実際、もし国の借金が政府によって民主的に(すなわち国民の意向を踏まえて)執行された必要な出費の累積なら、財政赤字は本質的に注文主である国民の支払い不足の反映であり、むしろ国民が負うべき国民の負債(政府の売掛金)であるということになる。日本が民主主義の国家であるなら、原則論として、後者のような理解を否定するのは困難だろう。その意味で、民主主義的な国家の財政破綻とは、主権者としての国民が増税の受諾を通じた負債の返済を拒否することで現実化する、民主主義の崩壊でもあるということになる。

 

 

 

503

 

 国際司法裁判所規定は、各国に対し、選択条項(義務的管轄権/強制管轄権)の受諾宣言を通じて自らを被告とする訴訟への応訴を義務とする選択肢を用意している(第36条第2項)。この宣言を行った国の間では、相手国を裁判に服させることが相互に可能となるが、宣言をしていない国は、どこの国からの提訴であれ、応訴の義務がない。この条項の受諾国は世界で70か国近くに達し、日本も1958年に受諾宣言を行っているが、イギリスを除いた安保理常任理事国(米・仏・露・中)やイタリア、ブラジル、韓国など、未宣言の主要国も少なくない。なお、国連の加盟国は、国際司法裁判所の裁判に従うことを約束し、判決が履行されない場合に相手国を安全保障理事会に訴える権利を有するものとされている(国連憲章第94条)。

 

 

 

511

 

  一般論として、謝罪や賠償や反省は、自らの犯した反規範的な作為・不作為によって生じた被害についてしか行われ得ない。したがって、従軍慰安婦の問題に関しても、国の負うべき責任を判断するためには、その前提として、作為・不作為の主体と内容を特定する作業が不可欠なはずである。言うまでもなく、その際に重要な争点となるのは、公的に遂行された強制連行、すなわち公務員(軍や官憲)が公務として行った非合法の強制連行の有無だろう。そして、そうした奴隷狩り的な強制連行について言えば、やはり当時の歴史的・社会的な背景に照らして考える限り、そのような事実はなかったと推察するのが妥当なように思われる。しかし、それがなかったのは、軍が売春を忌まわしい行為として道徳的に拒絶したからではなく、さほどの罪悪感もないまま都合よく業者を活用した結果であったと想像され、その事実をもって日本の名誉回復と見なそうとするような発想には違和感を禁じ得ない。また、同様に、たとえ強制連行がなかったということが事実であっても、だからと言って元慰安婦の女性を自発的な自由意思により自ら欲して娼婦になった存在であると決めつけるような見方が適切でないのは明らかだろう。戦場・戦時において女性が被った理不尽な性暴力は、いつの時代どこの社会でも、何がしかの強制力によって強いられたものであったに相違ない。そのような意味で、文脈を広げれば、記憶されるべき悲劇は従軍慰安婦だけにとどまらない。

 

 

 

518

 

 政治問題化した靖国神社をめぐる議論には、左翼の誤解と右翼の悪用という観点からの整理が有益だろう。まず、左翼的な批判の主眼となっている戦争犯罪者の合祀についてだが、戦時公務殉職という客観的事実が合祀の判断基準である以上、たとえばA級戦犯の存在も、それが生前の行為を称賛する趣旨からのものでないことは間違いなく、他方で、責任を問われるべきであっても戦死を遂げなかった人物の不在---満州事変の首謀者であった石原莞爾の例を想起すれば明らかだろう---は、教義上の本旨が侵略の正当化とは無縁であることを物語る。しかし、「昭和殉難者」として刑死(日本政府的には法務死とされる)を戦死と同列に扱うA級戦犯の合祀からは、過去の帝国主義的な国策の肯定(東京裁判の否定)を意図する靖国神社の右翼的な悪用---2006年に明らかとなった「富田メモ」が伝える昭和天皇の嘆き(「松岡、白鳥までもが」)の当事者である松岡洋右と白鳥敏夫を含む数名は刑死ですらない---が感じ取れる。

 

 

 

523

 

 日本政府の憲法解釈については、525頁以下で歴史的な推移が概説されているが、今日に至るまで、「芦田修正」は自衛隊や自衛権をめぐる合憲解釈の根拠に据えられてはいない。実際、「芦田修正」に依拠しようとする限り、後続する別のセンテンスのなかで禁止された「国の交戦権」の合憲化は不可能だろう。

 

 

 

536

 

 砂川事件の最高裁判決は、日米安保条約と米軍の駐留を是認(「一見極めて明白」な「違憲無効」性の否定)するにあたり、憲法第9条は国家の自衛権を否定しておらず、ゆえに自国の平和と安全を維持し存立を全うするために自衛のための措置をとることは合憲であるというロジックを採用した。その後、自衛権に関しては、自衛隊を違憲と判断した長沼事件の札幌地裁判決(1973年)で、その存在を確認しつつも、「ただちに軍事力による自衛に直結」するものではないという認識が示されたが、自衛隊の違憲性が争点となった別の訴訟(百里基地訴訟)では、1977年の地裁判決で、「自衛の目的を達成する手段としての戦争」は放棄されていないという判断が下されるに至る(水戸地裁)。しかし、最高裁の判決における自衛権への言及は、現在においても、砂川事件が唯一のものとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

                                        五絃舎ウエブサイト

 

                                                     『株式会社五絃舎のご案内』「出版情報」2016522

 

 

 

 

 

 

 

追記

 

 

 

5

 

 2006年の公益法人制度改革によって法制化された一般社団法人・一般財団法人の概念が物語るように、非営利であることは論理必然的に公益的であることを意味するわけではない。したがって、両者を等号で結んだ政府セクターと市民セクターの活動原則は、公益性を志向する非営利団体を議論の前提として想定した上で、見定められたものということになる。

 

                                                                                                                       2018731日)

 

 

 

209

 

 ただし、最低賃金の引き上げに伴って弱小企業への公的な支援策が検討されるべきなのは、そうした企業の存在が公的な利益に合致すると見なされる限りにおいてだろう。実際、そのような支援を正当化するだけの公益性が見当たらない場合、最低賃金以下の人件費でしか経営が成り立たないような企業の存続を政策的に後押しすることは、むしろ生産性において非効率な、あるいは需給関係からみて不必要な事業や業務を、無駄に延命させる結果となりかねない。

 

                               (2018731日)

 

 

 

2018年

5月

21日

戦略的マーケティング・マネジメント(第8版)

五絃舎の長谷でございます。新刊のご案内をさせていただきます。タイトルは、『戦略的マーケティング・マネジメント』(第8版)。著者は、ノースウエスタン大学ケロッグ・スクールでマーケティング戦略論、マーケティング・マネジメント論、製品戦略論などの教授をしているアレクサンダー・チェルネフ。大学の同僚であり、斯界の先達でもあるフィリップ・コトラーからも高く評価されている本書は、新しいマーケティングのテキストとして読者にたくさんのヒントをもたらすことと思います。ページ数:432ページ、定価:本体2200円、ISBN:978-4-86434-072-4。アマゾンでも取り扱っております。ご注文いただければ至急出荷致します。

 

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https://gogen-sya.jimdo.com/2018/05/21/戦略的マーケティング-マネジメント-第8版/

 

2018年

5月

21日

日本農業新聞に紹介されました

五絃舎の長谷でございます。さて、さる5月13日日曜日付の日本農業新聞に、安原好一編著『農業経営とマーケティング』の紹介が掲載されました。コピーを添付しておきますので、お目通しいただければ幸いです。

2018年

5月

21日

鉄道とアミューズメント

いつもお世話になっております。
五絃舎の長谷でございます。さて、弊社より発行されております「戦前大阪の鉄道駅小売事業の著者、谷内正往先生がご参加されるシンポジュウム、鉄道とアミューズメントが6月16日に大阪商業大学にて開催されます。詳細につきましては、添付ファイルをご参照いただければ幸いです。入場無料、定員締め切り次第受付終了とのことです。よろしくお願いいたします。

2017年

11月

01日

第18期に入りました

五絃舎の長谷でございます。このFacebook、いつもは新刊案内などを投稿に利用させていただいておりますが、今回はご報告です。本日、2017年11月1日をもちまして第18期に入りましたことをご報告いたします。
わたくし自身、前に在籍していた会社から通算して約28年間、社会科学を中心に、専門書、教科書出版に携わり、トータルで約300点の書籍出版を手がけてきました。当時、1980年代末ごろから今後少子高齢化が進み、今後需要も減少していくのではと言われておりましたが、そんな中で独立し、五絃舎として、利益成長はともかく出版活動自体は継続して続けていくことができました。
これも小社をご支援くださった皆様のご協力あってのことと、厚く御礼申し上げます。出版をめぐる状況は相変わらず厳しいものがありますが、「無理せず前向きに」を肝に命じて出版活動に邁進して参りたいと思います。皆様には今後ともご支援・ご協力のほど、重ねてお願い申し上げ、ご挨拶に代えさせていただきます。
2017年11月1日
株式会社五絃舎
代表取締役 長谷雅春

2016年

5月

22日

出版情報:海野和之著「公の鳥瞰」(Ⅰ・Ⅱ)の付記

『公の鳥瞰』追記

 

 

 

                                                           海野和之

 

 

 

 本書は、2005年の刊行後、新たな学問的蓄積や数多くの制度改正が進展するなかで、同年3月までの状況しか踏まえられていない記述内容の多くが鮮度を失い、今日的な観点からの書き直しを必要とする部分も目立つようになった。もとより、そうした陳腐化は改訂版の刊行によって刷新されるのが当然だが、近い将来の実現は困難な状況にあり、現時点において、時代の変化を反映したアップデートは諦めざるを得ない。ここでは、あくまでも刊行の時点に踏みとどまりながら、当時の自分の能力不足から不十分・不完全な記述しか叶わなかった数か所について、若干の修正・補足を試みることにする。

 

 

 

145

 

 ある意味で、応能負担や所得制限といった公共政策における福祉的な配慮は、所得分配の不平等を実生活上の不平等に直結させないための政治的=行政的な工夫であると言うことができる。実際、極論すれば、社会が妥当と考えるギリギリまで所得分配上の格差が税制で是正されたなら、個別的な福祉的配慮はむしろ不要であると考えられるだろう。したがって、そうした福祉的配慮の存在理由が社会的に必要な格差是正の補完にあるのだとすれば、その恩恵は有資格者全員が対等に享受できるものでなくてはならないはずであり、抽選の当選者など一部の好運な者だけを優遇するような形での運用が解消されないなら、むしろ一般的な税制による再分配の強化こそが重要であると見なされるかもしれない。なお、保有資産の残高に注目した応能負担の原則は、資産が合法的に取得された財産の蓄積である以上、貯蓄に対するペナルティという側面を持つものとなる。したがって、それを避けようとするなら、財産取得時の課税における垂直的公平の達成度合いを社会的に適正な水準にまで徹底した上で、資産の保有に対する課税においては、適用する公平性の原則を水平的公平のみに純化させることが肝要かもしれない。

 

 

 

152

 

 消費税が非課税の取引では、対価を受け取って物品・サービスを提供する事業者も、税制上はエンドユーザーとして扱われていることになる。したがって、ゼロ税率の場合とは異なり、非課税の事業者は仕入れ額に含まれていた消費税分の還付を受けることはできない。実際、たとえば社会保険の医療費が非課税からゼロ税率に変更されたなら、医療機関には薬剤などの購入にともなって支払われた消費税相当額が還付されることになるはずなので、両制度は、消費者にとっては「消費税がかからない」という意味で同等でも、事業者にとっては大違いとなる。もちろん、ゼロ税率という仕組みの下で、事業者への還付は特別な優遇ではなく、合理的な措置にすぎないが、還付金の有無に注目する限り、ゼロ税率の不適用という意味での非課税措置は、事業者への冷遇とも見なされ得るだろう。そのため、推測だが、非課税措置の採用にあたっては、たとえば診療報酬には消費税分が反映されているという説明がなされているように、それが適用される事業者への優遇や配慮を含め、社会の諸制度全体を見渡した上でのバランスが考慮されることになるのかもしれない。

 

 

 

160頁・161

 

 生活保護制度にとって、自己資産の優先的な活用という保護の補足性は、たとえば無収入の大金持ちを支給対象から除外するというような意味で、当然の原則だろう。しかし、この原理は、極端な対比をすれば、日頃から倹約に努め、一定の財産を蓄えて現役生活を引退した正直者を冷遇し、放蕩三昧の日々を過ごし、一文無しで現役生活を引退した道楽者を優遇する原則でもある。他方で、扶助のメニューが8種類に区分して用意される点については、受給者の個別事情に対する配慮を踏まえた措置として、一定の合理性が認められることは言うまでもない。しかし、医療扶助や介護扶助による代替を通じた生活保護制度の保険制度からの隔離は、生活保護の受給者に、自己負担を伴わないサービスの受給を保障することで、サービスの受給には一定の自己負担を要求するという現行の保険制度とは異なる原則を適用する結果となっている。このことの是非は、低所得世帯との収入の逆転という論点のみならず、自己負担の有無とモラルハザードという観点からも、議論を深める必要があるだろう。

 

 

 

163

 

 国内外を問わず、負の所得税が現実の政策として導入された事例は存在しない。しかし、税制と社会保障の一体化という着想は、給付付き税額控除という制度へと応用され、アメリカを皮切りに、勤労税額控除として10か国以上で採用されるに至っている。勤労税額控除は、勤労を条件に低所得層に税額控除を与え、所得税額が控除額を下回る場合には超過分を給付として還付する仕組みだが、アメリカなどの制度では、控除される金額は所得の上昇とともに変動し、一定水準に達するまでは逓増するものの、それを超えると定額で頭打ちとなり、さらに一定水準を上回ると消失するまで逓減するように設計されている。

 

 

 

220

 

 本書で展開した年収が等しいシングル・インカム世帯とダブル・インカム世帯の経済格差に関する考察には、議論の前提に論理的な誤りが存在する。執筆時には気づかずに犯したものだが、出版後にテキストとして利用した授業を聴講していた一人の男子学生が鋭い質問を投げかけてくれたおかげで、議論を再考し考察を深化させるきっかけを得ることができた。今となっては連絡の術もないが、率直に疑問を投げかけてくれた熱心な受講生M君に感謝の気持ちを捧げたい。

 

 両世帯間の経済格差については、以下のように、3つの解答を想定することが可能だろう。なお、両世帯の条件は、子供を保育園に預けねばならない世帯Bに年間100万円の支出が不可避となる以外、まったく同一とする。

 

      世帯A  夫の年収:1000万円 妻の年収:         0円 子供:3歳児1

 

   世帯B  夫の年収:  500万円  妻の年収: 500万円 子供:3歳児1

 

 1 年収が等しいのだから、経済格差は存在しない。

 

 2 世帯Bにとって100万円は必要経費なのだから、真の年収は900万円ということになり、経済格差は100万円という結論になる。

 

    3 専業主婦である世帯Aの妻は自分で子供の世話をしているわけだが、これは外注すれば100万円かかるサービスを自分で自分に提供していることになり、100万円分の目に見えない所得(帰属所得)が生じていると考えることが可能となる。したがって、世帯Aの夫婦は1000万円の年収と100万円の帰属所得(100万円(i))を手に入れ、世帯Bの夫婦は 900万円という真の年収と0円の帰属所得(0円(i))を手に入れているという結論になり、両世帯の経済状態は以下に示した通りとなる(i= imputed)

 

     世帯A  1000万円+100万円(i)

 

     世帯B  1000万円-100万円+0(i)

 

      以上の論理を踏まえる限り、両者の経済状態を完全に無差別化するためには世帯Bに「100万円+100万円(i)」をプレゼントする必要が生じることになるが、世帯Aにとっての100万円(i)とは、妻が専業主婦であったが故に生じた非勤労時間(仮に通勤時間込みで110時間としよう)によってもたらされたものに他ならない。そう考えれば、世帯Bに100万円(i)をプレゼントするということは、世帯Bの妻に110時間をプレゼントすることでなくてはならないだろう。しかし、誰にとっても1日は24時間なので、世帯Bの妻に110時間をプレゼントすることは物理的に不可能である。したがって、世帯Bの妻の「1日につき10時間」に代替する何かを探せば、それを活用して(あるいは犠牲にして)得られた実質的対価、すなわち400万円がプレゼントされるべき100万円(i)の等価物として見いだされる。したがって、世帯Aと世帯Bの完全な無差別化のためには、世帯Bに500万円(=100万円+400万円)をプレゼントしなくてはならないことになり、経済格差は500万円であるという結論になる。当然、世帯Bに500万円がプレゼントされれば、世帯Bは世帯Aと同様、年収1000万円のシングルインカム世帯となることができる。

 

 

 

306

 

 財政赤字の深刻化がもたらし得る最悪の事態は、国家財政の破綻である。しかし、そもそも財政赤字とは、誰の負債のことなのだろう。もしそれが政府によって独裁的に(すなわち国民の意向を無視して)執行された無用の出費の累積なら、財政赤字は文字通り政府が責任を負うべき政府の負債である。そして、言うまでもなく、負債が弁済されねばならないのは当然であり、弁済のためには、借り入れの主体(個人・任意団体・法人)が公人であれ私人であれ、返済のための資金が調達されなくてはならない。しかし、一般的な私人の場合とは異なり、政府にとっての資金調達とは、働いて稼いで貯めることではなく、税金を徴収することなのである。だからこそ、国会は政府を監視しなければならず、国民は議員を監視しなければならない。実際、もし国の借金が政府によって民主的に(すなわち国民の意向を踏まえて)執行された必要な出費の累積なら、財政赤字は本質的に注文主である国民の支払い不足の反映であり、むしろ国民が負うべき国民の負債(政府の売掛金)であるということになる。日本が民主主義の国家であるなら、原則論として、後者のような理解を否定するのは困難だろう。その意味で、民主主義的な国家の財政破綻とは、主権者としての国民が増税の受諾を通じた負債の返済を拒否することで現実化する、民主主義の崩壊でもあるということになる。

 

 

 

503

 

 国際司法裁判所規定は、各国に対し、選択条項(義務的管轄権/強制管轄権)の受諾宣言を通じて自らを被告とする訴訟への応訴を義務とする選択肢を用意している(第36条第2項)。この宣言を行った国の間では、相手国を裁判に服させることが相互に可能となるが、宣言をしていない国は、どこの国からの提訴であれ、応訴の義務がない。この条項の受諾国は世界で70か国近くに達し、日本も1958年に受諾宣言を行っているが、イギリスを除いた安保理常任理事国(米・仏・露・中)やイタリア、ブラジル、韓国など、未宣言の主要国も少なくない。なお、国連の加盟国は、国際司法裁判所の裁判に従うことを約束し、判決が履行されない場合に相手国を安全保障理事会に訴える権利を有するものとされている(国連憲章第94条)。

 

 

 

511

 

  一般論として、謝罪や賠償や反省は、自らの犯した反規範的な作為・不作為によって生じた被害についてしか行われ得ない。したがって、従軍慰安婦の問題に関しても、国の負うべき責任を判断するためには、その前提として、作為・不作為の主体と内容を特定する作業が不可欠なはずである。言うまでもなく、その際に重要な争点となるのは、公的に遂行された強制連行、すなわち公務員(軍や官憲)が公務として行った非合法の強制連行の有無だろう。そして、そうした奴隷狩り的な強制連行について言えば、やはり当時の歴史的・社会的な背景に照らして考える限り、そのような事実はなかったと推察するのが妥当なように思われる。しかし、それがなかったのは、軍が売春を忌まわしい行為として道徳的に拒絶したからではなく、さほどの罪悪感もないまま都合よく業者を活用した結果であったと想像され、その事実をもって日本の名誉回復と見なそうとするような発想には違和感を禁じ得ない。また、同様に、たとえ強制連行がなかったということが事実であっても、だからと言って元慰安婦の女性を自発的な自由意思により自ら欲して娼婦になった存在であると決めつけるような見方が適切でないのは明らかだろう。戦場・戦時において女性が被った理不尽な性暴力は、いつの時代どこの社会でも、何がしかの強制力によって強いられたものであったに相違ない。そのような意味で、文脈を広げれば、記憶されるべき悲劇は従軍慰安婦だけにとどまらない。

 

 

 

518

 

 政治問題化した靖国神社をめぐる議論には、左翼の誤解と右翼の悪用という観点からの整理が有益だろう。まず、左翼的な批判の主眼となっている戦争犯罪者の合祀についてだが、戦時公務殉職という客観的事実が合祀の判断基準である以上、たとえばA級戦犯の存在も、それが生前の行為を称賛する趣旨からのものでないことは間違いなく、他方で、責任を問われるべきであっても戦死を遂げなかった人物の不在---満州事変の首謀者であった石原莞爾の例を想起すれば明らかだろう---は、教義上の本旨が侵略の正当化とは無縁であることを物語る。しかし、「昭和殉難者」として刑死(日本政府的には法務死とされる)を戦死と同列に扱うA級戦犯の合祀からは、過去の帝国主義的な国策の肯定(東京裁判の否定)を意図する靖国神社の右翼的な悪用---2006年に明らかとなった「富田メモ」が伝える昭和天皇の嘆き(「松岡、白鳥までもが」)の当事者である松岡洋右と白鳥敏夫を含む数名は刑死ですらない---が感じ取れる。

 

 

 

523

 

 日本政府の憲法解釈については、525頁以下で歴史的な推移が概説されているが、今日に至るまで、「芦田修正」は自衛隊や自衛権をめぐる合憲解釈の根拠に据えられてはいない。実際、「芦田修正」に依拠しようとする限り、後続する別のセンテンスのなかで禁止された「国の交戦権」の合憲化は不可能だろう。

 

 

 

536

 

 砂川事件の最高裁判決は、日米安保条約と米軍の駐留を是認(「一見極めて明白」な「違憲無効」性の否定)するにあたり、憲法第9条は国家の自衛権を否定しておらず、ゆえに自国の平和と安全を維持し存立を全うするために自衛のための措置をとることは合憲であるというロジックを採用した。その後、自衛権に関しては、自衛隊を違憲と判断した長沼事件の札幌地裁判決(1973年)で、その存在を確認しつつも、「ただちに軍事力による自営に直結」するものではないという認識が示されたが、自衛隊の違憲性が争点となった別の訴訟(百里基地訴訟)では、1977年の地裁判決で、「自衛の目的を達成する手段としての戦争」は放棄されていないという判断が下されるに至る(水戸地裁)。しかし、最高裁の判決における自衛権への言及は、現在においても、砂川事件が唯一のものとなっている。

 

2015年

7月

10日

出版案内:大学教育とキャリア教育--社会人基礎力をキャリア形成に繋げるために--

高橋和幸・難波利光編著

大学教育とキャリア教育

--社会人基礎力をキャリア形成に繋げるために--

ISBN978-4-86434-043-4

定価:本体1400円+税

2015年1月9日発行


  本書は、商業、会計、経済、情報などの経営学、経済学関連の基礎科目をしっかり学ぶことが、就職にあたって社会人基礎力となることを理解してもらうことを目的として企画された。本書を読むことによって、大学でなにを学ぶか、どのようにして、大学生活を過ごすか、ということの解答が理解されよう。

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2015年

7月

10日

出版案内:国際流通の電子化


西道彦著

国際流通の電子化

ISBN978-4-86434-041-0

定価:本体2400円+税

2014年12月10日発行


本書では、国際流通を国際商流、国際物流、国際金流と捉え、そのなかで書類、決済、物流の可視化という電子化が可能な3つの領域から国際流通の電子化を概観した。具体的には権利証券の電子化、国際決済や国際電子商取引の問題、電子タグの導入による物流の可視化などを取り上げ、検討を試みた。

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2015年

7月

10日

出版案内:サービス・マーケティングの理論と実践

松井温文編著

サービス・マーケティングの理論と実践

ISBN978-4-86434-033-5

定価:本体1900円+税

2014年3月15日発行

 

わたしたちは、レストランでの食事、美容院でのカット、銀行でのお金の出し入れ、ホテルの宿泊など、日常生活において、さまざまなサービスを享受し、それらにたして対価を支払っている。本書はそんなサービスの提供活動にかかわる基本的な考え方や姿勢について、おもに初学者が学習するために企画された。サービスの特性と構造、サービスに対する満足、サービス・ブランディング、サービスの国際化など、理論的な解説から、テーマパーク、ホテル、医療マーケティング、介護サービス、自動車ディーラーなど、具体的な事例による実践までを網羅した。

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